ヒノキ |
学名 | Chamaecyparis obtusa |
別名 | ヒ、ヒバ、ホンヒ Hinoki Cypress(英) |
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檜、桧 | 分類 | ヒノキ科ヒノキ属 (常緑高木) |
かつて、火を起こすための、火切り板として使ったため、「火の木」の意。別に、尊い木の意で、日の木がもととする説もある。中国にヒノキは無く、「桧」はイブキのこと。 | 原産・分布 | 本州(福島県以南)、四国、九州 |
神奈川県 | 広く植林されている。自生は、丹沢の小尾根などにある。 | |
用途 | 庭木、公園樹、家具・器具・建築・船・車両材、彫刻、屋根葺材 | |
山中に普通にある木だが、各地に植林されていて、自生を探すのが難しい気がする。写真は、尾根筋だが、植林と思われる。 直幹性で高さ30mになる。スギに次ぐ重要造林種で、一般的に、スギの植林帯より上部、尾根に近いほうに植林する。 |
樹 丹沢 善六ノタワ 061215 |
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ヒノキの寿命は不明あるいは1000年位の説がある。 江戸時代(1700年頃)から保護されてきた木曽のヒノキ天然林。樹齢300年前後のヒノキ、サワラが広葉樹と混ざって生えている。見事な森だった。→こぼれ話「木曽五木」 |
天然林 岐阜県 中津川市 付知町 160522 |
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樹皮は灰紫褐色、赤褐色で、縦に裂け薄く剥がれる。似たスギの樹皮と較べるとヒノキは巾が広い。「檜皮葺き(ひわだぶき)」と呼んで屋根葺き材にする。 | 幹 丹沢 塩水沢 030413 |
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きれいな淡褐色で年輪がはっきりしている。材にして乾燥すると心材、辺材の差が無く、全体が白みを帯び美しい。 建築用材としては、木目が通り、香りがよく、腐りにくいので、スギより高価。香りはテルペノイドのピネン、カジノールなど。抗菌作用の他、動物にはリラックス効果がある。 奈良時代から、仏像はヒノキが多く使われた。→こぼれ話「仏像」 |
若い幹断面 上野原市 秋山 160531 |
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小枝は広く分枝し、やや水平に並ぶ。葉は鱗片状で、裏面にはY字状に、白い気孔溝がある。 仲間のサワラは、気孔溝がX字状になるので区別する。 見分け方(スギ/ヒノキ/サワラ) |
枝・葉 丹沢 水の木 040430 |
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雌雄同株、雌雄異花 球果は8〜12mmの球形で、10〜11月に成熟して赤褐色になる。乾燥するとサッカーボール状の裂け目ができ種子を出す(写真下)。 |
若い球果 神奈川県 二宮町 051023 |
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種子は2〜3mmほどで、種皮の一部が薄い翼となる。乾燥した日に球果が開き、種子がこぼれて風に乗る。形状からすると、それほど遠くには飛びそうもないが、どうだろうか。 | 種子 111108 |
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林道にスギの実生に混ざって生えていた。写真では見えにくいが、幼木の葉は先が尖る。 緑色部が1年目、茶色部が2年目の軸と思える。その下に黒変した軸があるので3年目の実生なのかもしれない。 |
芽生え 上野原市 秋山 140113 |
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こぼれ話 「木曽五木」 戦国時代が終わり江戸時代(1603年〜)になると、お城や城下町、武家屋敷などの築造のための木材需要が旺盛になる。特に新都江戸はほぼ新しい都市の構築のため大量の木材を必要とした。さらに10〜30年に一度は発生した大火のため木材需要が止むことが無かった。 江戸期、木曽の山は尾張藩領となり(1615年)家康の意向もあって、徳川幕府や藩や需要を満たすため多くの木材を産出した。藩の重要な財源ともなり、林業としては木曽川を利用した木材運搬技術がおおいに発達した。当時の山々は全国的に荒廃していた。特に木曽は山間の土地であり木年貢が認められていたせいもあり、山の木はほとんど切り尽くされてしまった。 藩財政の危機を感じた尾張藩は、1665年に樹木の伐採の禁止、農民の立入りを禁止する巣山・留山制度を採用した。さらに1708年にはヒノキ、サワラ、アスナロ、コウヤマキ、ネズコ(後に追加)を木曽五木として保護した。その取り締まりの厳しさは「ヒノキ一本、首一つ」と例えられる程だった。ただし尾張藩のご用材や、伊勢神宮のご用材はその間も提供され続けた。 それから300年経過した木曽の山は、世界的に貴重とされる温帯性針葉樹の天然林になっている。現代でも伐採は厳しく制限されているが、伊勢神宮を初め、日本の国宝級の建築物のための用材は木曽から提供されている。 「木曽ヒノキ」は一種の地域ブランドになっており、人工林のではなく天然林のヒノキであることが条件とされる。尾張藩は伐採を禁じたが、植林は行わなかった。当時すでに吉野林業(奈良県)などでは大規模に育林林業が行われていたが、木曽では天然更新で芽ばえたヒノキが自然と育つのを待つ林業だった。天然ヒノキの方が材として優れるされている。 江戸時代の末期に、火災で消失した江戸城西の丸を再建するために、幕府は尾張藩内の反対を押し切って裏木曽で大径木のヒノキを多数伐り出した。その後、尾張藩では家老や藩主の死亡や山火事など様々な災害が続いた。山神の祟りとして幕府は神の怒りを鎮めるための祭事を行い、1840年には裏木曽全山の守護神として護山(もりやま)神社が建てられた。しかしこの大量伐採で裏木曽の大径木ヒノキは尽きたとされ、その後再び保護策がとられている。 木曽の山に日本の森林利用と保護の歴史を見ることができる。木曽のヒノキ天然林は他の森には無い雰囲気を持っている。写真上はヒノキとサワラが自然に接ぎ木をした状態の合体木、写真下は護山神社の拝殿。 参考文献:「日本の歴史を作った森」立松和平、「森と日本人の1500年」田中淳夫 |