県立高等職業技術高(生活編)
学校の1日は、8時50分から始まり、通常は16時10分、水曜日のみ14時30分で終了する。
90分で2単位(時間)とし午前4単位、午後4単位(水曜は2単位)だ。
1日8単位だが、異なる内容を勉強するのでなく、ほとんどは1つのテーマで1日は終わる。
朝は予鈴が8時45分にあり、その時までに作業着に着替えておくために、8時20分頃には登校していた。
教室の机は、中学生に戻ったような雰囲気で小さかった。本を1冊広げる、昼の弁当を食べるサイズだ。
それでもエクステリアサービスコースは教室での授業がほとんどないので、あまり気にはならなかった。
個人の着替えのロッカーが1つづつ与えられた。鍵のかかる入れ物はここだけなので重宝した。
後は道具を入れるロッカーと履物を入れるロッカーが与えられた。
在学中は、個人の持ち物をいろいろ学校に置いておくことになり、終了間近に車で持ち帰る人もいた。
通学は当初JRを使ったが、1カ月後には天気が良い日にはできるだけ徒歩にした。
技術校はJRの鶴見駅から歩いて15分、森永の工場脇の橋で鶴見川を渡って少し行ったところにある。
我が家からは直線距離で6km近くあるので、どんなに急ぎ足でも1時間15分はかかった。
体力仕事をこれからやろうとしているのだし、行き帰りの道路沿いの庭を見学するのも良いだろうと思っていた。
しかし、往復を歩くとさすがに疲れ、家に着くと伸びていた。
暖かくなるに従って自転車での通学に切り換えた。自転車では30分弱で通うことができる。
ただし、学校への駐輪は許可が必要で、電車で通っているはずの僕は、近くの無料の駐輪場を使った。
後で聞いたら、最寄りの鶴見駅から自転車で通っている人もおり、申請すれば良かったようだ。
クラスには、息子と同年令の高校卒業直後の18歳から、定年直後の60歳までがいた。
前の座席から年齢順に座ると、僕はちょうど真ん中当たりになった。
前の若者達は、教室での授業中はよくお昼寝をしていたし、後ろのおじ(い)さん達はよく発言していた。
中頃の中年世代が、一番おとなしく真面目だったのかも知れない。
屋外を中心とした実習は、皆、楽しかったが苦しい時もあった。
ブロック、レンガ、タイルなどの左官の練習は、中腰での作業を1日中続けるため腰が痛くなった。
冬の雨の日の屋外実習(樹木管理)は、手足の指が痺れるほどに寒かった。
また右手を使う力仕事が多いためか、右手が腕から先がむくんだようになる時期(これは今も)もあった。
植物(自然)が好きなことと、多少の器用さと、旺盛な好奇心があれば、どうってことはないと思う。
飲むのが好きなおじさんたちが多いので、当然クラスの懇親会を何回も実施した。
4時には学校が終わってしまうので、5時から2時間の飲み放題という失業者向け割安時間帯だ。
通常は、特に2次会の話しも無かったのだが、さすがに最後の打ち上げ時にはカラオケに行った。
また、近くにキリンビールの工場があり、見学をすると出来立てビールを試飲できた。
初夏の頃に、学校帰りに連れ立って行って美味しいビールを飲んだ。
ただ、無料の2杯で満足できず、必ず工場内のビアレストランに入ってしまい、結局高くつくことになった。
珍しいホットビールが美味しかったことを覚えている。
休日は、土日祝日が休みなのと、夏休みが2週間、暮れ正月が1週間ほどあった。
僕の場合は夏休みのお蔭で、森林インストラクターの集中セミナーを受講することができた。
その他、次年度の入校試験などの日は、休日とは言わず自宅学習として休みになった。
失業保険の受給者は、学校を休むと保険金を支給されないので真面目に通学していた。
年が明けて1月になると、今までの復習が多くなり、
就職のための職安や会社訪問を、積極的に実施するように指導される。
造園の仕事は、年が明けると求人数が大きく減る。
電車で時間をかけて通う仕事ではないので、所在地が大きなポイントになる。
給与面の待遇、主な仕事(公共、個人邸)などの面まで考慮していると中々決まらないケースが出てくる。
僕は、技術校の先輩から紹介された個人邸中心の会社に、年末の何日か手伝いに行き就職も頼んでいた。
年が明けて体調を崩し、その後手伝いに行かないまま2月になり、
ある日電話をすると「年が明けてから仕事が無い、人手は足りている」、とのことで就職を断られてしまった。
それから焦って再度の職探しだった。
その頃は、個人邸中心の求人は経験者を、公共工事中心の求人は若者を求めていた。
(2003.10.18)