自然保護を思う その2
自然回帰がブームになり、いろいろな企業、団体が自然保護や、環境への配慮をうたう。
どれも悪いことではないし、成果をおおいに期待したい。
ただ、それらの活動を一緒こたにして見ていると、本質が分からなくなるような気がする。
自然保護と言う言葉で括らずに、本当は何をしたいのか、を考えてみた。個人的な勝手な解釈です。
多くの市民団体が、ある特定地域の自然を守るために活動している。
いわゆる里山の保全活動がその中心である。
クヌギ・コナラの薪炭林の保全や、藪化した竹林の整備など、地域によりその活動内容は異なる。
自然保護と言うと、森林を守る、と言う思い込みが、本当は違うことを分からせてくれる活動がある。
阿蘇の草千里を、森林化から守る活動である。
阿蘇の草千里は、阿蘇の赤べコの放牧によって成立している。
最近、草を食べて育った牛の肉は硬い、と言う消費者の気まぐれで赤ベコが減っているらしい。
雨の多い日本の国は、放っておけばどこも潜在植生の森になってしまう。
阿蘇では、森にならないように、草千里と言う二次的自然を保全する活動が行われている。
あか牛と草千里(環境省のページより)
コナラの薪炭林も、美しい竹林も、阿蘇の草千里も自然保護と言う名で括られる。
だけど、本当は自然を保護しようとしているのではなく、その土地の文化を保護しようとしているのだと思う。
確かに、コナラの雑木林には豊かな植生があり、照葉樹林の単調な植生と比べると、
照葉樹林への遷移を抑え、落葉の雑木林を守ることは自然保護と言えなくもない。
だけど、自然の遷移を抑えてまでして、落葉の雑木林を守ることは、純粋な自然保護とは違う気がする。
自分達の日常生活では、すでに薪も炭も使わないし、竹製品もプラスチックに置き換わっている。
薪炭林も竹林も草千里も、有形文化財としての保全とも言える。
かつて日本人は、身近な自然の恵みを活かし、自然と一体になった生活様式を、ほんの最近まで持っていた。
経済的な豊かさと便利さを求めた結果、自然とは縁のない生活様式に急速にシフトしてしまった。
地域の自然保全活動は、かつての生活様式・文化の保全活動なのではないか。
そもそも人が自然を保護するなんて、おこがましいと言う気がする。
100年後だって自然はあるし、1万年以上前から今の自然はある。
地球温暖化問題も、守ろうとしている対象は地球ではなく、本当は人間である(当たり前だが)。
地球には、数万年単位で氷期や間氷期が訪れる。平均気温の変化など当たり前だ。
問題となっている石油や石炭など、地下資源を全て燃やしてしまっても、数億年前の地球の大気に戻るだけである。
温暖化によって、国土が海に沈んでしまったり、砂漠化が進んだりして
人間が苦しむことになる事態を回避するために、京都議定書があり環境サミットがある。
だから、温暖化問題対策を「地球にやさしい○○」なんて、感傷的な表現で語るのは誤りだと思う。
民族のお互いの生存をかけた闘いであり、他の民族への思いやりでもある。
ついでに言えば、ある団体の職員がテレビで、「温暖化問題の解決は、政府や企業がするのでなく、
地球の住民一人一人が生活の仕方を変えることだ」と言っていた。その通りだと思う。
気候変動の影響を大きく受ける南の諸島(FOEのページより)
と、ここまで自然保護と言う言葉で括るには変だナ、と思っていた問題にふれてみた。
一方、ストレートに自然保護の課題は、佐渡の朱鷺に代表される、「種(シュ)」の消滅問題なのではないかと思う。
地球環境と言う自然が数万年の時を経て作った種が、この近代に、数多く消滅している。
環境省のレッドデータ・ブックでは、日本で絶滅の危惧のある生物種(レッドリスト)として約3800種挙げている。
消滅の原因はいろいろある。開発による自然環境破壊、人間の生活様式の変化による環境変化、
世界的規模での交通手段の発達による、種の交雑など。
しかし、この種の消滅の問題は、人により捉えかた(感じかた)は様々なような気がする。
日本産の朱鷺がいなくなることに、どんな問題があるのか。日常の生活の中では分からない。
お米の収穫高が上がることと、メダカの生存とどちらが大切か、の問いかけに何と答えたら良いのだろうか。
森林伐採やリゾート開発、ダム開発で、希少種の猛禽類を絶滅させることは良くない、と多くの人は言う。
しかし、インドネシアから輸入されたオオクワガタを、ペットとして飼うことは、ダム開発と同じように良くないこと、
と意識する人は少ないのではないか。
「種」とは、一般的な定義では交配可能な生物のグループ、と言われる。
すべての生物はご存知のように遺伝子を持っている。全く同じ遺伝子を持つ生物個体をクローンと呼ぶ。
少し(コンマ以下の%)で遺伝子が異なると、それは個性となり、数%も異なると「種」として分化する。
ヒトとチンパンジーの遺伝情報の差は、僅か1.5%なのだそうだ。
様々な環境変化と、気の遠くなる時間の中で、少しずつ異なる遺伝子に変化(進化)し、
現在、数百万種とも数千万種とも言われる種が存在し、地球の自然を構成している。
1つの種が分化するのに、自然は数万年を要すると言われる。
生物の相互依存と言う地球環境にとって、「種」の種類による重みの違いは無い。
ドジョウがいなくなることが、朱鷺の絶滅に影響し、朱鷺がいなくなることが、ヒトにどう影響するか誰も分からない。
今できることは、今存在する「種」を減らさないことなのだろうが、
その努力は並大抵でなく、経済的負担と比較してしまうと、人間はためらってしまう。
「種」の維持に経済的負担が大きいと言うことは、地球の自然環境にそぐわない、経済的発展をしてきた裏返しなのだろう。
自分の子供、人類の子孫に、今と同じ地球環境を残すための、経済的負担だと認識しなければならない。
日本産朱鷺の標本(生物多様性センターのページより)
2005年2月10日