チャノキ

学名 Camellia sinensis
別名 チャ
茶(中)、Tea(英)
茶の木 分類 ツバキ科ツバキ属 (常緑低木)
中国での名がそのまま。 原産・分布 中国南西部原産(奈良時代に渡来) 日本各地で野生化
神奈川県 野生化したものが樹林内にある。
用途 庭木、飲用
茶畑では、高さ1m内外に刈り込まれているが、放置すると2~3mにもなる。野生化したチャノキは、都会の公園や里地、里山でも見られる。
写真は植栽木だが刈込を受けていない。根元から多く分枝させ叢生する。


東京都町田市三輪
200321
静岡の里地を歩くと、山間をうねうねと続く茶畑が多い。日本一のお茶の産地である。チャノキはもともとは亜熱帯の樹で、栽培の条件としては、気温も必要だが、降水量(湿気)も重要だそうで、谷間に作られることが多い。写真のポールは、霜除けの扇風機。 茶畑

静岡市
牛妻
010105
葉は互生し、葉身は長楕円形で縁には細鋸歯がある。葉脈に沿って凹み、脈間は凸出、側脈は縁まで届かないのが特徴。
茶色の語源でもある。葉を煎じて作った染料で染めた色。→「植物にゆかりの色
葉にはアルカロイドポリフェノールアミノ酸などさまざまな成分が含まれており古代から健康飲料として利用されてきた。
★食★チャドクガ


群馬県
みなかみ町赤谷
041011
10~11月、白い5弁の花を下向きに開く。
花弁は白色円形で5~7枚、縁はひだ状になる。雄しべは多数で、基部が花冠と合生する。


川崎市
多摩区
(植栽)
041029
朔果は約2cmの扁球形。熟すと3裂して暗褐色の種子を3個出す。 果実

群馬県みなかみ町
赤谷
151010
朔果は約2cmの扁球形。熟すと3裂して案褐色の種子を3個出す。 種子

横浜市
港北区
篠原園地
110105
頂芽は芽鱗が無く、鎌形で緑色。伏毛が密生する。 冬芽

東京都町田市三輪
200321
茶畑の刈込まれたチャノキの一斉芽吹き。2週間後が八十八夜、一番茶の茶摘みの季節になる。 芽吹き

丹沢
鐘が嶽
200415
こぼれ話 「喫茶」
 中国では、神農の逸話に、お茶の葉を食べていたと伝えられていて、紀元前2700年頃(神農時代)がお茶の発見とされている。唐代では、広く上流階級の嗜好品として、飲用されていた。
 日本では奈良、平安時代に、最澄、空海などがお茶の種子を持ち帰ったのが最初とされている。広く栽培されるようになったのは、鎌倉初期(1191年)に栄西が持ち帰ってから。栄西が持ち帰った種子は、京都栂尾にも蒔かれ、宇治茶の基礎になった。鎌倉時代には武士の間で、喫茶の文化が広まった。さらに15世紀から16世紀にかけて、村田珠江や千利休などによって、新しいお茶の礼式が作られ、武士の間に流行し、今日の茶道となった。
 緑茶には、カテキンタンニン:(渋み)、カフェイン(苦み)、テアニン(うま味)、ビタミンなどを多く含まれていて、健康飲料としていろいろな効果、効能がある。
「アヘン戦争」
 時は変わって18世紀。イギリスでお茶が好まれていた。
 ヨーロッパでのお茶の歴史は17世紀初めに、オランダ経由で日本のお茶が紹介されたことに始まる。それ以来、特にイギリスではお茶を飲む習慣が広く浸透したとされている。その後、より安い茶として中国(明あるいは清)からの輸入が始まり、緑茶以外の多様な茶が知られるようになる。 18世紀になると紅茶が主流になっていた。

 18世紀にイギリスは、中国からの陶磁器などの輸入により大幅な輸入超過になっていた。ちょうどその頃七年戦争(対フランス)、アメリカ独立戦争、ナポレオンとの戦争などの戦費がかさみ銀の国外流出に頭を悩ませていた。そこで考え出された策が、東インド会社の持つベンガルアヘンを中国に売りつけることだった。
 18世紀末、清朝政府はアヘン吸引の習慣による健康被害と風紀の頽廃を止めるためアヘンを輸入禁止とする。しかし闇商売の方が儲かる例にもれず、清朝のアヘン商人が官憲と一緒になって密貿易に応じ続け、アヘンの密輸は拡大した。
 業を煮やした清の道光帝は、林則徐をアヘンの密貿易取り締まりの全権大臣として任命する。この林則徐の厳格なアヘン取り締まりと、イギリスの帝国主義が第一次アヘン戦争(1840~42)を起す。結果は香港の割譲などを含む南京(不平等)条約を締結して清朝の敗戦となる。その後、他国とも不平等条約を結ぶこととなり、清朝凋落のきっかけになったとも言える。写真上は、中国のジャンクを攻撃する東インド会社の蒸気船(by E.Duncan)
 アヘン戦争後、中国内陸部にイギリス人が立ち入れるようになると、東インド会社はプラントハンターであるロバート・フォーチュンにチャノキ苗のインドへの移植を依頼する。彼の努力によりインドの高原部ダージリン地方に茶産業が興され、ヨーロッパ市場における中国茶の独占が終了する。
 一方アヘンの密輸は、第二次アヘン戦争などの後なかば公認化され、清朝社会をむしばみ続けることになる。
 お茶を原因とする戦争を、それ以前にもイギリスは起している。アメリカの独立以前、イギリス植民地でもお茶は東インド会社が中国茶を独占して取り扱っていた。安い密輸茶を取り締まるために、1773年にイギリスは茶税法を制定し取り締まりを強化した。これがアメリカ市民の反発をまねき、有名はボストン茶会事件となり、アメリカ独立戦争へと繫がるのである。写真下はボストン茶会事件の博物館(1996.11)。
 アヘン戦争はお茶とアヘンとの戦いにも見える。イギリス人がお茶を飲みたいために、代金としてアヘンが渡されたようなものである。お茶は習慣性が無く健康に良いため古くから薬として扱われてきた。チャノキとしては不本意ではあるが、歴史に名を残す暗い話題である。

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